ゲーム批評ブログ

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そのゲームをどれだけしゃぶるべきなのか、という問題

 つまるところ、有意義な人生が送りたいということに尽きる。

 

 昨今のゲームは、やりこみ要素的なエンドコンテンツが豊富だ。どこまでも、やれる。ローグライク風のゲームは、ありがたいことに、なおさら終わりがない。

 しかし人間には寿命がある。重要な部分こそ直視しがたいという例にもれず、死ぬまでにゲーム(を含めたあらゆるもの)に投資できる時間は限られている。

 とりわけ、社会人には自由時間が少ない。なおかつ結婚していて子供がいる場合には、さらに少なくなる。

(そもそも、そんなに朝から晩までゲームをするべきではないとも思う。人生における時間と見返りを包括的に俯瞰すると、ゲームだけにリソースを投入するのは賢明とはいえないからだ。ゲームの収穫は刹那的な快楽しかない。多種のゲームをやったところでゲームはゲーム。飽きがくる。限界効用逓減の法則というやつである。散歩、読書や創作、運動、観戦や行事参加など、やってみると面白いことはたくさんある。いろいろやったほうがいい人生になる。多分、そういう研究結果があるだろう)

 ひとつのゲームをやっているとき、他のゲームはできない。そうすると、今やっているゲームについて、どこで見切りをつけるべきかを自然に考えるようになる。言い換えると、あるゲームをプレイするという経済行為に関して、他のゲームをやり始めた場合と比較して、機会費用が大きくなりすぎてはいない、と自分で納得できる基準を作っておくべきだろう、ということだ。

 ただし、機会費用の最小化や絶対的な基準を・・・作るぞー!と、画太郎先生さながらに気合いをいれているわけではない。そのような絶対的かつ教条主義的なものさしは、窮屈になるだけだ。あくまでも遊びなのだ。楽しく遊ぶための無自覚的なルールを自覚するほうが、もっと楽しくなるだろう、というだけだ。

 まずは、足がかりとして、機会費用が大きくなっているのはどういう状況だろうか、と考えてみた。

 ひとつにはプレイが泥さらい状態になっている時だろうな、と直感的に考えた。得るものがないから戦いたくねえなあと思いながら敵を避けたり、欲しくもないし使う予定も必要も無いアイテムを集めているような作業感というか。プレイ終盤になって、マップに点在するボスや宝物、ギミックを探し回ったり、特定の組み合わせなどをいちいち探すことに時間を掛けている状態が、よくないんだろうなあということだ。これは、ゲーム内のコンテンツ(ストーリーモード、スキルツリー、味方キャラクター、ストラテジー考察など)を消費しきった後で、まだ残っているものを探すことに時間を掛けている状態なので、泥さらいと表現している。

 ゲーム内のコンテンツ、という捉え方には、まだ何かあるような気がする。そこを、もうすこし、ゲームをプレイする。最初はコンテンツが盛りだくさんだ。まだ行っていない街やダンジョンが目白押しで、スキルツリーの振り方に悩み、味方キャラクターやモンスターの使役方法を考えたり、収集要素を楽しみながら、続々と現れる新手の敵戦力との戦い方を考える。楽しい。その状態は、ゲーム内コンテンツを消費する速度が高い。ゲームに未知、未踏、未詳の領域が多分に残っているならば、どこに手をつけてもコンテンツが消費されるからだ。いずれ、そのスピードも下がっていく。やがて、コンテンツを消費するための探索や調査に手間がかかるようになる。この探索や調査が楽しいのだ、と言われれば、返す言葉はない。そこは、人それぞれの楽しみ方だからである。しかし、一般的にはコンテンツを消費する時に、面白いゲーム体験ができるように思う。と、いうことは、ゲーム内コンテンツを消費する速度が重要なんだろう。一つの目安というべきか。コンテンツを消費しにくくなってきたら、やめるタイミングが近づいてきたというシグナルだと意識することにしよう。

 また、全く別の方向性からもこの問題を考えてみよう。コンテンツ消費とは無関係に、面白かったり、つまらなくなったタイミングがあったかどうかを思い出す。そういえば、単純に飽きたな、と感じたり、久しぶりにやってみたけど面白いな、ということはあった。オートペットやStS、ヴァンパイアサバイバーや3 Minute Heroesなどだ。共通点は、シンプルなローグライク風のゲームであることだろうか。コンテンツ内容とは無関係に、続けてやると飽きるが久しぶりにやると楽しい、という特性があるようだ。これらのコンテンツ非依存性のゲームは、ある程度遊んだらに一旦やめていい。しばらく寝かせてから再プレイしたり、決まった時間だけ行っても良いゲーム体験ができそうである。もっと気楽にやめていいし、気楽に再開してもいいのだ。

 ローグライク要素は、新しいプレイスタイルを提供しうるのだ。発見であった。特定の筋トレの時にでも起動しよう。ホームトレーニーはインターバルにゲームができるのだ。習慣化に利用すれば一石二鳥になる。

 

 それじゃあ、ポンポンやめて、どんどん始めればいいんだな、と思いきや、ここに費用対効果の視点を持ってくる。個々人の価値観の要素はさらに濃くなるのだろうが、つまりは、お金も大切だってこと。ゲームを楽しむのは大いに結構だが、基本的にタダではない。

 俺は、1000円で10時間がひとつの目安である。それだけ楽しい体験ができれば十分だろうな、と割り切っている。これは3DSやVITAの中古ソフトで遊んでいた時代に、買うかどうかを判断する際の基準として用いていたものである。現実には3000円を超える買い物をしたことがないわけで、STEAMでも同様である。当然セールで買って2000円以下くらいで買うのが限界だろうか。渋すぎる、と言えば、そうなのかもしれない。しかし、お金はかけないなら、それに超したことはない。安いゲームを遊び尽くしてしまったら、もっと帯域をあげてゲームを探すだろう。が、まだまだ、良いゲームはたくさんあって、探索は終わりそうにない。

 金額でプレイ時間の採算をとる考え方は、やめ時の判断要素にもなるかもしれない。最低限これだけは遊べたんだから、もうやめちゃってもいいかな、と納得できる。 

 

 いろいろ考えて書き連ねているが、結局は自分が納得できるかどうかだと思う

 ゲームに限らず、自分の身に訪れるあらゆる出来事に対して、選択可能であるものに関しては、自分が納得して選ぶべきなのだ。納得できるだけの調査や覚悟をした、と自負することだ。そうであったなら、選択の結果を引き受けたり、過去に対して後悔をしないで済む確率が上がるんじゃないか。でなければ、なんだかよく分からないけれども、よく分からないことをしています、自分でも、よくわからないんですが、というような、ふらふわと浮ついた状態になってしまうように思う。

 

まとめ

・ゲーム内コンテンツ消費速度の低下を自覚したら、やめ時に移行しつつあるサイン。

・シンプルなローグライク風ゲームは散発的プレイでも良いゲーム体験ができるかも。

・値段あたりの時間分遊べたなら、もういいかな、と考えてもいいんじゃないか。

・結局は、自分がその選択に納得できるかどうか。